舞台『関数ドミノ』2017年版


とてもいい舞台でした。
いろんな人の感想を聞きたくなるし,話したくなりました。

公式サイト
http://kansu-domino.westage.jp/



あらすじ
ある街で交通事故が起こる。それは不思議な事故だった。車がぶつかった「壁」がないのだ。
「壁」があるとしたら,それは本来跳ね飛ばされるはずだった歩行者を守るかのように,突然現れ,突然消えたとしか思えない。
もしも,この事故がそれで終われば,「不思議としか言いようのない奇跡の話」として忘れ去られるものだった。しかし,この事故では車の助手席が大破し,運転者の妻が意識不明となっていた。
誰かの奇跡の代わりに誰かが死にかけている。
果たしてこれは奇跡なのか,怪奇現象なのか。
目撃者の1人,真壁は「これこそがドミノだ」と言う。ごく稀に自分の望みが次々と叶う,そんな人間がいる,と。しかし本人は無意識で,遠回しにドミノ倒しが起こるように願いが叶うのだと。ただ,あまりに想いが強ければ,それは一瞬で起きる。今回のことは,歩行者を守ろうとして起こった一瞬のドミノだったのだ! と。


この「ドミノ幻想」が,舞台の主軸となるからくりなわけですが,
それは本当にあるのか? 妄想ではないのか?
もしも本当だったとしても,それは幸福なことなのか?
ドミノを持つ人の周りは,ドミノの願いのあおりを受けることになる。受かるはずの学校を落ち,結ばれるはずだった恋人と別れ,入賞するはずだった小説は落選する。
ドミノがもたらすのは,幸福なのか? 不幸なのか?


ドミノにまつわるその2軸が,グルグルと螺旋になり,最後はああいうラストなわけですが,



ラストシーンにおいても,
「本心から願うとはどういうことなのか」とか,
「本人にも思い通りにならない力(ドミノ)は,果たして幸福なのか」とか,
何通りにも気持ちが重なってきて,とても面白かったです。



舞台が終わった後,
幸運と不運をどう捉えるか,とか,
ポジティブとネガティブの生き方,とか,
自分の「今」を考えてみたりしました。


登場人物もそれぞれに切羽詰まっていて,
(舞台上には出てこないけれど)奥さんは結局どうなってしまったんだろう……とか,
新田の辛さは,あるときは静かに,あるときは激しく,めちゃくちゃ突き刺さってきて,痛かったな……とか
左門(仮ドミノ)は,最後に「俺だって全て願いが叶ったわけではない」と慟哭していたけれど,それもとても刺さるな……とか
秋山さんは真壁のそばにいたのに,何の恩恵も受けるわけもなく,なんだかとても悲しく切ない人だな……とか
真壁は,ずっとクズな感じ(その演技がとてもよかった)だけど,でも最初の交通事故では,純粋に見知らぬ他人(田宮)を救おうとしたわけだし,ラストのすがるような呼びかけも(それが誰のためのものなのか,それは果たして成功するか,などは置いておいても)切実なもので,未来に希望を見たくなりました。






以下,自分の思い出語りなど。



古い友達の話。

「Aみたいになりたかったなあ」とBが言った。
Aは,明るくさわやかで,いつも話の中心にいるような人だった。
そのときは,「えーそうなんだ」「知らなかったー」などと,みなで軽口を叩いて終わった。


それを聞いていたCは,ふと「Aみたいになりたいという気持ちもわかるなあ」と思った。
Aと話していると,明るい気持ちになれた。素敵な人だなあと思っていたから。
そこで,「Aといると,どうして明るい気持ちになれるのか」「Aは,困ったことがあったとき,どう対処しているのか」など,考えてみたり,直接本人に聞いてみたりした。Aは快く話をしてくれた。


しばらくして,Cには,Aの周りに人が集まる理由が,垣間見えたような気がした。
そこには,実践できそうなものと,「自分には難しいなあ」というものがあった。
しかし,Cにとっては新しい生き方の選択肢が見えたような気がした。


ある日,Bはまた言うのだった「Aみたいになりたかったなあ」。
Cは気づいた。
Bにとって「Aみたいになりたかったなあ」は,本当にその言葉通りの意味なのだと。
その言葉は,Bの本心であろう。
しかし,BはAの努力を想像したり,Aの行動を真似してみたりはしていないのだ。


Bにとっては,Aは生まれついての幸運(あるいは人に愛される気質)の持ち主なのだろう。
そして,それは自分にはないものだと思っているのだろう。
なるほど,Bはそのようにして,Bであるのだな,とCは思うのであった。



現実の世界にドミノはいない。
しかし,『関数ドミノ』の世界はすぐそばにある。